こんにちは!
さつまいもが大好きすぎて銀座ホステスから農業に転身。
30代独身女ミスさつまいもです^^
今回は大切な人との向き合い方、付き合い方について。
年齢重ねると親族に関わらず身近な人の死を経験するようになりますよね。
職場、同級生、ご近所さんなどなど。
私は1年半ほど前に父を肝細胞癌で亡くしたのですが、親の死って結構ダメージというか、強烈なんだなぁって実感したんです。
でもそれがあったから
人生観を見直すことができたし
仕事や環境も選び直して
新たな出会いと挑戦に巡り会えて
なんなら母親との接し方についても改めることができたので
少し時間はかかるけど、悲しみのなかにとどまるのも悪いことじゃないと気づきました。
大切な人がそばにいるが、うまくいってない
関わり方、向き合い方を模索中
こんな思いを抱いてる方に向けて
少しでも私の体験が心を軽くするヒントになれば幸いです^^
どうぞ最後までお付き合いください

- 父ちゃんと私
- やってくれたことを知る
- 何が自分を悲しくさせているのか原因を探る
- どうしたいのか、どうしたかったのか
- それぞれの時代背景
- 終わりに
父ちゃんと私
父ちゃんと私は、全然仲良くありませんでした。笑
と言っても私が一方的に父を嫌い避けていたんです。
理由は母ちゃんをいじめていると思い込んでたから。
両親は北海道の田舎で酪農業を営んでいました。
乳牛のお世話をしていて1年365日無休で稼働。
そこに嫁いだ母ちゃんを不憫に思うようになったのは中学生くらいの時から。
仕事のきつさ大変さ、それから父の愚痴をこぼす母ちゃんが不幸に思えて、諸悪の根源は父なのか、、?と思い始めたんです。
両親の仕事の忙しさと私の反抗期が加わり、家族間でのコミュニケーションは希薄なものに。
それは埋まることなく、埋めるすべもわからず
私は実家を離れ就職。一人暮らしを選び、家族と物理的に距離を置くことになりました。
やってくれたことを知る
1日働くだけでも心身ともに疲労するのに、さらに家族のことも考えてる両親はすごい。
社会人になって初めて家族のありがたみに気づきました。
携帯圏外の純度の高い田舎で暮らしていたので、学校への通学は黄色いヘルメット被って自転車。
小中学校だと片道30分。高校へは1時間くらい。
冬場だと積雪でチャリは無理なので毎日父が送り迎えを担当。
1ヶ月一生懸命働いて得られるお金を、自分のためでなく子供の学費に充てる。
家族の衣食住を守るために働く。
父への偏見は社会人生活を重ねることで和らいでいき、むしろ両親はありとあらゆることを私たち兄弟のためにやってくれてたことを知っていきます。
それがどんなに大変で、どんなに愛情深いことか
20歳でうっすらわかるようになり、30歳の春、父が急死したことでより一層身に染みました。
何が自分を悲しくさせていたのか
父は肝細胞癌で亡くなりました。お酒は1滴も飲めない人でした。
2020年、年明けに体の異変を感じ、3月下旬病院で検査を受け余命半年宣告。
その1週間後父は静かに旅立って行きました。
実は私自身、父の変化には気づいていました。
食事の量が減っていること、お腹が出てきていること(恐らく肝機能低下による腹水)、スナック菓子やコンビニ弁当の習慣化。
たまに帰るからこそわかっていたけれど、働きづめの彼を思うと、口出しするのも申し訳なく言わずにいたのです。
それでも言えば良かった。そしたらもっと変わってた、違う未来になっていたはず。
もう戻ってこない過去への後悔が頭の中を無限ループ。
今更言っても仕方ないのに悔やんでも悔やみきれない気持ちが私を悲しみへと向かわせていました。
葬儀や手続きが少し落ち着いて東京へ戻ったが緊急事態宣言発令中。
仕事も無ければ出かける場所もなく、家に1人。ただ時間が流れるのを待つだけの毎日でした。
どうしたいのか、どうしたかったのか
家族を労る言葉を普段からかけておけば良かった。
大事な人の心と体の健康を守りたかった。
悲しいから後悔しているのか。後悔しているから悲しいのか。
私は後者でした。
同じ思考が繰り返されている日々に飽きがきて、
じゃあ私は一体どんなことに後悔しているのか。
具体的なことをノートに書き出す作業を始めた5月。
伝えられなかった。替えの効かない体を大事にして欲しかったこと。
身近な人への労り方、言葉の掛け方、それを言うタイミング
単語、箇条書き、乱立した文章。いや文章にもならない文章など
思いのままにノートに書き殴り、眺める。
その作業により改めて
大事な人には笑顔で楽しく自分の人生を生きていてほしい
健康であることの重要性
自分にできることとできないことの線引き
この3つが見えてきました。
自分が今こうして健康に生きていられるのは間違いなく両親、家族のおかげです。
友人とか職場の人達含め、身近な人には幸せでいてほしいと思います。
心と体が健康だとますます毎日が充実しますよね。
私自身、原因不明の体調不良に悩まされた時期があったので心身のケアは必要だと考えています。
ただ、自分の考えを一方的に相手に押し付けない。
ここの境界線がバランスであり自他の尊重に関わるため、非常に難しく、これからの課題だなー。
なんてはっきりしてくると涙も鼻水もすぅっとおさまる心地よさみたいなものを感じました。
それぞれの時代背景
父ちゃんは代々農業を営む家系の本家、長男。
酪農を継ぐのは必然の流れだったのでしょう。
人里離れた土地なので、情報スピードが遅く、昔ながらの風習が残っていたため亭主関白。
同居も当たり前。幼少期の頃は狭い家に曽祖父・曽祖母・祖父・祖母・父・母・兄・私の8人編成で暮らしていました。
私は自分のことは自分でやりなさい。
という教えを受けていたのに、男性陣は食事中に席を立つことなく、席を立ちご飯をよそう女性陣を見て、これは一体どうゆことかと矛盾や疑問を感じていたのは今でも鮮明に覚えています。
そういう環境で育てば男たるもの〇〇、とか、我慢することが普通、とか現代にそわない価値観に囚われてしまうのも理解できます。
おしゃべり好きだけど頑固で職人気質なところがあった父。
疲れて気分が冴えない時に、お菓子なんか食べちゃだめ!!!って言ったら確実ムッとして不貞腐れちゃうから、
毎日お仕事お疲れ様。(ねぎらいの言葉)
お菓子もいいけど(現状肯定)ミックスナッツとかフルーツもあるよ(選択肢の提案)
美味しいから一緒にどう?(お誘い)
こんなふうに父ちゃんの仕事や体調に配慮しておきたかったです。
そして母。
母は母の父(私の祖父)を5歳の時に事故でなくしています。
母の母(祖母)と兄(叔父)と暮らしていて、家族に迷惑かけまいと何事も自己解決し幼少期を過ごしてきたようです。
母も忍耐力お化けと言っても過言ではないくらい我慢強い。
裏を返せばなかなか本音を人に言えないということ。
ぎっくり腰の時もインフルエンザの時も弱音をはかず無理して重労働をしていました。
けどおおよそ子供は雰囲気で察しています。家族の気持ちや体調を。
父と母は私たちに見つからないように影でよく喧嘩していましたが、
お互い怒りの頂点に達すると勢い凄まじく、静かで広大な土地に怒鳴り声が聞こえるものだからバレバレでした。笑
当時はその光景が衝撃だったのも印象的です。
公私共にパートナーであることは大変なことだと悟りました。
母は父の死後、疲弊していました。
酪農をやめるための手続きやらなんやらを全部1人でやろうとして混乱。
私も手伝うよ!と言っても、人にお願いすることができない、知らない人生だったから私に事務処理が回ってくることはありませんでした。
母の性質を汲み取って
一緒に手続きやるよ(申し出)今やってることは何?(現状把握・確認)
こっちは私がここまでやるから母ちゃんは引き続きこっちの手続きで進めていくのはどう?(分担の提案)
ざっくりしたサポート申し出じゃなくて具体的な提案込みでの支援をすれば良かったんだろうな。
こうして冷静に分析すると
家族といえども1人の人間。育ってきた環境、何を想い何を考えて生きていたのか、も異なる。
一緒に暮らしてる、家族だからって理由で同じ価値観ではない。
と発見することができました。
もっと早くから多角的な視点で父と母の気持ちや言動に寄り添えれば良かったのかもしれない。
再びたられば思考に引き戻されそうですが、それは今だから思うところ。今だからわかったこと。
そんなふうに感じています。
これで良かったと
心から納得できるように。
私はここから自分の未来を豊かにしていく決意をしました。
終わりに
父が突然他界しなければ私はここにいることができなかったでしょう。
農業に従事し大好きな野菜たちと触れ合うことなく
優しい職場のスタッフに出会うこともなく
いずれ限界に達すると知りながら売上のために浴びるようにお酒を飲み続ける。
そんな人生にならなくて本当に良かった。
生きていても亡くなってもこれからも私の中で父は偉大です(もちろん母も^^
日の光を浴びて
鳥の声を聞いて
新鮮な野菜の匂いに包まれ
みずみずしい野菜をこの手で収穫する。
過酷さと幸せを一気に味わいながらこれから農業の可能性にチャレンジしてみようと思います。
たくさんの人に健康と幸せを届けるために
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